MMA(総合格闘技)の練習をしていると、頭では分かっているのに身体がまったくついてこないことがあります。
説明を聞けば理屈は理解できるし、人がやっているのを見れば何をしているかも分かります。それでも、自分でやってみるとできません。
重心の位置、相手との距離、力を入れるタイミング、逆に力を抜かなければいけない瞬間。言葉としては理解しているのに、自分の身体ではうまく再現できないのです。
そのたびに、「自分は生まれてからずっとこの身体を使ってきたのに、身体についてこんなにも知らなかったのか」と思わされます。
最近、武道の「道」という言葉が気になっています。柔道、剣道、弓道など、あまりにも聞き慣れた言葉なので、これまではその意味を深く考えたこともありませんでした。
でもMMAを始めて、そこから柔術や剣術、武道についても調べるうちに、練習の中で自分が感じていたことと少しずつつながってきました。技を学ぶことと、自分自身を知ることは別々ではないのかもしれない。今はそんなふうに思っています。
自分は「身体」を学んでこなかった

自分は大学まで進学しました。小学校から大学まで、考えてみればかなり長い時間を「学ぶこと」に使ってきたことになります。
本を読み、知識を覚え、考え、文章を書く。人の説明を理解し、自分の考えを言葉にする。そういう意味では、それなりに頭を鍛えてきたと思います。
だからMMAを始めてしばらくしたころは、「頭は鍛えてきたけれど、身体は全然鍛えてこなかったんだな」と思っていました。そのころは、単純に『身体を鍛えてこなかったからだ』と考えていました。
けれど今は、少し捉え方が違います。もっと根本的に、身体そのものを「学ぶ対象」として見てこなかったのだと思います。
もちろん、身体を使わずに生きてきたわけではありません。立つ、歩く、走る、物を持つといった動作は、子どものころから当たり前にやってきました。(中学生の頃は運動部にも所属していました)
でも、あまりにも当たり前すぎて、「どうやってバランスを取っているのか」「どこに力を入れれば相手に力が伝わるのか」「逆にどこの力を抜けば動きやすいのか」なんて、ほとんど考えたことがありませんでした。身体は、自分が命令すれば勝手に動くものくらいに思っていたのかもしれません。
格闘技では、その当たり前が通用しません。自分の身体なのに、思ったようには動いてくれない。ずっと一緒にいたはずの身体が、実はほとんど知らないものだったのだと、初めて気がつきました。
頭で「分かる」と、身体で「分かる」は違う

MMAの練習をしていると、「分かる」にもいくつかの段階があることを思い知らされます。
- 説明を聞いて、理屈が分かる
- 人の動きを見て、何をしているか分かる
- 自分の身体で、実際にできる
この三つは地続きですが、まったくイコールではありません。
実際の練習で、首相撲に捕まって膝で崩されたことがあります。頭の中では、組まれる前に攻撃することも、距離を取ることも考えていました。理屈の上では、自分にはいくつも選択肢があったはずです。
でも実際に組まれて身体を崩されると、何もできなくなってしまいました。「こうすればいい」と知っていることと、相手が実際に動き、抵抗してくる中でできることの間には、かなり大きな距離があります。
それでも何度も繰り返していると、ときどき「ああ、こういうことか」と感じる瞬間があります。以前にも聞いていたはずの説明が、初めて身体の感覚と結びつく瞬間です。
これは、新しい知識を一つ覚えたときの「分かった」とは少し違います。うまく言葉にできなくても、身体では少し分かっている。逆に、どれだけ理屈を説明できても、身体が分かっていなければ実際にはできません。
だからといって、頭で考えることに意味がないわけでもありません。説明を聞くから試せるし、試して失敗するから疑問が生まれます。その疑問を持ってもう一度説明を聞くと、前には気づかなかったことが分かり、また身体で試すことができる。
考えることと動くことを何度も往復しながら、少しずつ分かっていく。MMAを始めて出会ったのは、そういう学び方でした。
武道の「術」と「道」

身体を通して学ぶ面白さを知ったことで、私の関心は武道そのものへと広がっていきました。その中でふと気になったのが、「剣術」と「剣道」、「柔術」と「柔道」のように、名前に使われる「術」と「道」の違いです。
以前は、時代とともに呼び方が変わっただけなのだろうと思っていました。しかし調べてみると、単なる言い換えにとどまらない背景が見えてきました。
まず「術」とは、技術や方法を指す言葉です。身体をどう動かすか、相手をどう制するか、あるいは武器をどう扱うか。武術である以上、こうした実践的な技術を身につけることが基本にあるのは当然です。
では、そこに「道」という言葉が使われるようになり、何が意識されるようになったのでしょうか。
近代に入ると、技の習得だけでなく、稽古を教育や人間形成につなげて考えることが、よりはっきりと理念として示されるようになりました。
もちろん、昔の「術」に心や生き方についての考えがなかったわけではありません。古くから技の修練を通じて心のあり方や生き方を考える思想はありましたし、現代の「道」においても技術の向上や勝敗が失われたわけではありません。つまり両者は、技術と人間形成という二つにきれいに分けられるものではないのです。
全日本剣道連盟の解説によると、1919年、西久保弘道は、「武」本来の目的である修養の意味を強調するため、武術や武芸を「武道」に、剣術や撃剣を「剣道」という名称に統一することを主張したといいます。
さらに1975年には、同連盟によって「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」という理念が定められました。
剣道の技術を高めることだけが目的ではない。技を磨き、稽古を積み重ねる時間を、自分自身を磨くことにもつなげていく。
私が「道」という言葉やその考え方に強く惹かれた理由は、まさにここにあります。
自分には「道」が、歩き続けるものに見える

そもそも、なぜ「道」という言葉なのだろうと思います。
中国の古い思想では、「道」は物理的な道路だけでなく、「進むべき道筋」や「生き方」などを考える重要な概念として使われてきました。日本でも武道だけでなく、茶道や書道など、さまざまな技芸と結びついてきた歴史があります。
ただ、歴史的な語源の説明というより、今の自分には「道」という言葉が、到着点よりも歩き続ける過程を表しているように感じられます。
道は山頂ではなく、歩いていくものです。
一つできるようになると、今まで見えなかった「できないこと」が見えてくる。それを練習して少しできるようになると、またその先が見える。上達したから終わるのではなく、上達したからこそ次の課題が見えてきます。
MMAの練習で感じていたことも、少し重なります。できなかったことができるようになると嬉しい反面、自分の動きの雑なところや、次に直したいところが見えてくる。知らなかったころより、むしろ分からないことが増えていくような感覚すらあります。
それでも前には進んでいる。そう考えると、「道」という言葉が自分の中で少し腑に落ちるのです。
身体を通して、自分自身についても学ぶ

MMAを始めて、身体を動かす面白さを知ると同時に、身体以外の自分についても気づくことが増えました。
思うようにできないとき、自分はどうなるのか。焦るのか、力任せになるのか、失敗をごまかしたくなるのか。それとも、もう一度試してみようと思えるのか。
息が上がって余裕がなくなったときには、普段気づかない自分の反応が出ることもあります。自分が思っている自分と、実際に反応する自分にはズレがあり、身体を使うことでそのズレに気づくことがあります。
ただし、ここで武道や格闘技を美化したいわけではありません。格闘技を長く続ければ、それだけで自然と立派な人間になれるかといえば、そんなに簡単な話ではないはずです。
技術が上達したからといって人に優しくなれるとは限りませんし、強くなることで自信ではなく過信が生まれることだってあります。厳しい練習に耐えた経験が、そのまま他人への思いやりになるとも限りません。身体を鍛えることと、人格が磨かれることは、自動的にはつながらないのです。
では、「人間形成の道」とは何なのだろうと思います。自分はまだ答えを持っていません。
ただ、MMAの練習の中では、自分のできないことが見えます。焦りや癖にも気づきます。そして、相手がいなければ練習そのものが成り立たないことも分かります。
大事なのは、それが見えたあとにどうするかではないでしょうか。
できない自分を認められるか。相手を尊重できるか。勝ち負けとは別に、自分の課題を振り返れるか。
そう考えると、「道」というものは、稽古をすれば勝手に人間が完成するという話ではなく、「技を学ぶ時間を、自分自身について学ぶ時間にもできるか」という問いなのかもしれません。
自分にとって、その入り口がMMAだった
もちろん、自分がやっているのは現代のMMAです。日本の伝統的な武道とそのまま同じだと言いたいわけではありません。成り立ちも違うし、競技のルールも違います。最初から「道」という思想を前提として作られたわけでもありません。
それに、身体を通して自分を知る経験は、格闘技に限った話でもないと思います。他のスポーツにもあるでしょうし、ダンスや楽器の演奏、職人の仕事にもあるはずです。
ただ、自分にとってその入り口が、たまたまMMAでした。
最初は、技を覚えたい、うまくなりたい、というところから始まりました。けれど続けていると、技術の習得だけでは済まなくなってきました。
自分の身体や癖を知り、余裕がないときの自分の反応にも気づく。そして、相手がいるからこそ学べることがあると知る。
一つの技を学んでいたつもりが、気づけば思っていたより広いところまで来ていました。だからこそ、以前なら読み流していただろう「道」という言葉が、今は妙に気になるのだと思います。
学びは尽きない

大学まで勉強してきて、自分はそれなりに「学ぶ」ということを知っているつもりでした。でもMMAを始めて、まだこんな学び方があったのかと思わされました。しかも、その入り口は、生まれてからずっと自分と一緒にいた身体でした。
以前の自分は、学ぶとは「分からないことを減らしていくこと」だと思っていました。もちろん、それも学びだと思います。
けれど今は、もう一つあると思っています。学ぶことによって、それまで見えていなかった「分からないこと」が見えるようになる、ということです。
一つできるようになると、その先のできないことが見えてくる。一つ知ると、新しい疑問が生まれる。それは振り出しに戻ったのではなく、少し前に進んだからこそ、前には見えなかったものが見えるようになったのだと思います。
これは、「道の正しい意味を理解した」という話ではありません。むしろ逆です。武道について少し知ったことで知りたいことが増え、MMAを練習したことでできないことが以前よりよく見えるようになりました。
でも、それでいいのだと思います。
次の練習でも、きっと「頭では分かっているのに、できない」ということがあります。それをまた身体で試してみる。少し分かる。そして、また次の分からないことに出会う。
MMAを始めて開いたのは、格闘技の世界だけではありませんでした。ずっと一緒にいたのに、ほとんど知らなかった「自分の身体」という世界だったのです。
その先にも、まだ道は続いています。
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参考資料
全日本剣道連盟「剣道の歴史」
https://www.kendo.or.jp/knowledge/kendo-history/
全日本剣道連盟「剣道の理念」
https://old2.kendo.or.jp/kendo/concept/
日本武道館「武道憲章」
https://www.nipponbudokan.or.jp/shinkoujigyou/kenshou
Stanford Encyclopedia of Philosophy「Daoism」
https://plato.stanford.edu/entries/daoism/

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